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2010年8月22日

この夏も甲子園に高萬自主の鐘が鳴る

「半世紀前、甲子園の黒土すら持ち込めなかった琉球の島へ、深紅の大優勝旗が初めて渡ります!沖縄の夢、島人の悲願を、興南高校、春夏連覇の偉業で叶えました!!」
平成22年8月21日午後2:57、沖縄の高校野球の歴史に黄金の1ページが加わりました。
阪神甲子園球場で開催されていた『第92回全国高校野球選手権大会』の決勝戦が、興南高校と東海大相模高校との間で行われ、興南高校が東海大相模高校を13-1の大差で破り、史上6校目の春夏連覇と、沖縄県勢初優勝の悲願を達成しました。
興南・島袋洋奨(ようすけ)、東海大相模・一二三慎次(ひふみ・しんじ)、今大会屈指のエースの対決が、決勝戦の大舞台で実現しました。
私としては、島袋投手が序盤で東海大相模打線に攻略されないことと、興南打線がどこで一二三投手を攻略するかということを、この試合のポイントと見ていました。
東海大相模は、巨人・原辰徳監督の母校、40年前の第52回大会で全国制覇を成し遂げたことのある強豪校。しかし、夏の甲子園には、33年ぶりの出場でした。なぜなら、神奈川県は、180校あまりが県予選に参加する、全国最大の激戦区だからです。
序盤、東海大相模を無得点に抑えた興南は、4回に一二三投手を攻略します。一死二三塁から7番伊礼のタイムリーで1点を先制、8番島袋がスクイズを外されるもキャッチャーの悪送球で2点目、9番大城から4番眞榮平まで5連打、この回打者一巡の攻撃で一挙7点を入れました。6回興南は3番我如古の3点本塁打と2つのタイムリーで5点を追加、これで一二三投手をマウンドから引きずり下ろしました。
私はこの試合の模様を、BS-ASAHIで見ていました。ABCの清水次郎アナウンサーさんは、昭和33年の第40回大会で沖縄から初めて出場した首里高校が初戦敗退後、甲子園の土を持ち帰ろうとしたところ、当時沖縄が米国の統治下にあり、那覇港で土を捨てさせられた、などのエピソードを番組の中で語っていました。これを聞くと、それまでの沖縄の高校球児たちの活躍のシーンが、脳裏をよぎってきました。
首里高校が沖縄から初めて甲子園にやってきて52年、我喜屋優監督が主将だった興南ナインが準決勝まで勝ち上がって42年、沖縄水産高校の2年連続準優勝から19年……いよいよ、沖縄県民の悲願達成の瞬間がやってきました。
代打として送り込まれた宮崎大将(だいすけ)選手のバットが空を切った瞬間、沖縄県勢として初めての夏の選手権大会優勝と、史上6校目の春夏連覇。沖縄の高校野球の歴史が変わった瞬間です。
昭和43年の第50回大会で、興南ナインは準決勝まで勝ち進み、準決勝で優勝した大阪の興国高校に0-14で敗れたものの大健闘の大きな拍手が送られました。それから42年、当時の主将を務め、北海道で社会人野球の選手・監督としても活躍した我喜屋優監督が、あのときを上回る優勝、しかも沖縄県勢初の悲願を、2010年の甲子園で達成したのです。それも下手投げのサウスポー・島袋投手や、我如古主将をはじめとする打線、しかも決勝戦では先発全員安打、13点の猛攻を見せ、4,028校の頂点に上り詰めました。
今年は、4月に沖縄の野球の聖地である奥武山球場が、観客収容能力3万人、ナイター設備完備で新しく生まれ変わり、また、高校生のスポーツの祭典『2010年度全国高校総合体育大会・美ら島沖縄総体2010』が開催、20日に水泳競技の終了で全日程が終了したばかりでした。興南高校の夏の選手権大会優勝は、新生・奥武山球場の生まれ変わりと、高校総体の開催に花を添えた、大きな出来事として、沖縄の歴史に長く刻み込まれることでしょう。そして、優勝盾がその歴史の証となるでしょう。
沖縄では、旧暦でお盆を行います。きょう22日は旧盆入り・祖先の霊を迎える“ウンケー”です。興南ナインはきょう、大阪を出発し沖縄に帰ってきます。平成2年、3年に決勝に進みながら、あと一歩のところで深紅の優勝旗を逃した、沖縄水産高校の栽弘義監督は、3年前の平成19年5月8日、沖縄県勢の夏の選手権大会優勝の悲願達成を見ることなく、病に倒れ65歳でこの世を去りました。沖縄に帰ったら、真っ先に栽監督のお仏前に、優勝の報告をしなければなりません。
Sany0721
「興南優勝」を伝える新聞の号外も発行された。(筆者撮影)

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